昭和58年08月10日 月次祭



 信心は心に光を頂く事です。おかげを頂く事は先になると真の信心に入って行けません。おかげが終わったらそれでおしまい。はぁこのおかげは死んでも忘れんと、言うたり思うたり致しますけれども、そこが人間の悲しさ、いつの間にか疎かになる。日々心に光を感ずる、光を頂くそれが段々大きくお育てを頂いて、周囲に申していけれる光ともなるのでございます。光を心に感ずるそれを楽しみに信心させて頂けば、その光に潤う様におかげは伴のうて来るものであります。
 始めは誰でも難儀な事がある、困った人間業ではと言う様な時に、神仏とこういうのですけれども、お道の信用はどこまでも真の信心です。何十年信心しておりましても、真の信心に入って行かなければ、折角の尊い教えも有り難いお道も、使ってない様なものになります。そう言う様な信心をさせて頂いたら心に光を感ずるか、聞くだけか結局神様へ向う精進、しかも何事にも信心になれよと仰せられるのだ。信心になる信心になると言う事は、教えに基いた生き方をさして頂くと言う事でございます。
 2、3日前でしたでしょうか、今毎日末永先生が朝のお勤めを終わらしてもらいますから、9時ころになります、兄弟皆んな話し合ってかどうかしりませんが、兄弟がみんな揃うて、それに娘婿たちも一緒に朝の挨拶に来てくれます。挨拶だけではない、もうほんとにもう口を開けば信心、口を開けば有り難いと言う話を致します。ここの中の住人は、はぁそういうものは無かったけれど。
 先だっても2,3日前でしたか、その昔から言うてましたが、僕はもうあの人だけはもう、どげん好きになろうと思うても好きになれない。いうならば、まぁ言葉でいうならばもう面見るともいやちゅう、はぁこんなこっちゃいかん、自分の御周囲にいやなもの嫌いなものがあると言う事は、はぁあんなこっちゃないと思っとるけん、もう虫が好かんとでしょう、この人ばっかりゃ好きにゃなれない。という話を何回か聞いたことがあるが、ところが最近その人の事をね意外と誉めるんです。
 はぁあの人にはああいう素晴らしいところがあった。とても僕たちは真似は出来ん。はは、今度はどの様な事でしょうか、皆さんいやな事がある否な人、自分の周囲周辺にあることはないでしょうか、それは結局本当な事が分らないからです。特に一番最近の信心意識を、いまとにかく話さずにはおられない、今日の夜の務めを終わらしてもろうて、今日は家内孫たち、嫁やら子供たちやら皆んな連れて挨拶に来てくれます。
 そしてその日一日のお広前の様子やら、時には教団の様子を色々話してくれます。ものとしてこんなに嬉しい事はありません。そして今申します様に、もうこの人ばっかりゃ面見るともいやと言う様な人を褒める様になった。どう言う事でしょうね皆さん。心に光が出来て参りますと、今まで見えなかったところが見えてきます、第一自分の心が見えて来る様になる。光が大きくなるに従って隅から隅まで見える様になる。
 あの人は、あんな奴はと思うておったけれども、その人の本当の言うなら人間性というか、いうならば神の氏子としての見方が出来る様になったら、はぁとても素晴らしい人、とても僕たちでは真似は出来んと、言う様な良いものを持っておられる、と言う事が分ってきた。これは私しは心に光が出来て来たからだと思います。いやな事いやなまぁこれは様々ないやな事はいっぱいありますけれども。
 そのいっぱいないやな事が有り難いものだと、ただ自分が本当な事が分らないから、いやなことであるとか困ったことで難儀なことになる。そこでならその難儀なら難儀を、始めの間は修行と思うて取り組ませてもらう。修行と思うて取り組んで行く内に、その事が有り難いお礼を申し上げねばならないことだと言う事、に気付かせて頂きます。私共の周囲には、もうお礼を申し上げることばぁっかりなんです。
 信心させて頂くものは、親のある子とない子ほどの、違いとおおせられるのは、おかげが頂けるから親のある子じゃありません。そうした真実な様相がはっきりと、見えて来る様になる事がおかげなのです。不平不足に思うておったことが、お礼を申し上げねばならない事に気づかしてもろうて、お詫びをさしてもらい、お礼のいう神恩報謝の生活が出来る様になるのです。
 私しは隔日、一日おきに病院に通います。6時間という長い時間をじぃっとベットの上で休んでおかなければならない、(  ?  )もう捨てようと思っておったところが、隔日に、一日おきに、ですから一日は家でお休みの様な気がしておったけれども、よくよく考えると、神様が疎かになっておることに気が付きました。人間は楽な時には確かに、金光様金光様唱え続けて例えばおっても、それは神様に本当に通う様な、はぁものでないことに気が付きました。
 病院に参りますとそれはもう真剣に金光様唱えねばおられない、唱えさせて頂くその6時間の間に、ご信者の一人一人の事を御祈念をさして貰います。本当に時間を感じません。もうそれが有り難いもう病院に行くと言う事は、もう本当にいそいそとして病院通いが出来るようになりました。有り難いです。楽しいです。一生懸命お参りが出来たでしょうか、もう有難うして有難うして泣くまいと思うても泣かずにおれない。
 勿体無い神様にこういうおかばいの中におかげを頂かして貰うと言う事は、勿体のうして勿体のうして、お礼を申さして頂いとりましたら、神様からお知らせを頂きました。ハイライト、ハイライトという言葉を頂くんです。私は英語は分りませんから、どう言う様な意味の事か解りませんけれども。ハイは、ま、ハイクラスの何かと申します。段違いのという意味だろうとこう頂きます。ライトというのは、今日皆さんに聞いて頂いておる光の事だと思いました。
 今まで本当に私の様に有り難い人間があるじゃろうかと思いよった、有り難いというものは、けいとのしこう有り難いものであった。今、日々感じている有り難いは今日までに克ってない神様のがハイライトとおおせられる、それこそ段違いの光であり、有り難さというふうに思うのです。信心は矢張りね、これで良いということはないですよ。一生が修行とおおせられるが、一生その有り難うなった行く、一生が有り難うして、勿体のうして勿体のうして。
 何を見ても聞いても今まで嫌いで嫌いでという、その嫌いな人は好きになる素晴らしいと言う事が分って来る。心の光りが大きくなれば大きくなるだけ、それがはっきりと鮮明に、心に感ずることが出来る様になる。そしたら又神様からお知らせを頂ました。私共若い時にはやりました流行うたに、あれは何と言う歌だったでしようか「今日は小樽かお名残おしや。雨の十日も降れば良い」と、大正初期に流行った歌が、どういう事だと皆さん思いますか。「明日は御立ちか御名残おしや、雨の10日も降れば良い。」
 お雨の誰でもいやなんです、嫌いなんですけれども好きな人がもう旅立つという、帰るなら帰ると言う、1日でも引き留めたい思いがあります。そこでいやな雨もそれこそ10日も降ればよいと言う様な意味の歌だと思います。そういう歌声が響いてくるんです。もうそれこそ忘れてしもうとった歌でした。けれども繰り返し心の中にそれを口ずさみながらね、はぁ信心とはこういうおかげを受ける事だな。
 今日もどうぞいやな事が無い様にじゃなくて、やはり修行であるならば、次は自分の好きな人を引き留めてにでもなるならば、否な雨も10日も降っても良いと言う様な心、もう行く手に恐いものもなければ困ると言う事もない、それを分ればわかるほどそれが神愛であり、より神様が大きな光を下さろうとする、働きであると言う事が分って来るからです。信心とは平穏無事、安気安穏に暮せるような願いをすることではありません。日、1日どういう事があってもそれを有り難く頂けれる。
 受けれれる心を養うていくそれが楽しみの信心。そこには勿体無いまでの神様の、信者氏子と仰せられる、中にもまた信者氏子と思われる様に、神様の特別のおかばいを頂く事がで出来ます。その神様の特別なおかばいを頂いておる事がまたはっきりと分って来る、心の光に照らされてくる。ほんとに御理解にある様にあれもおかげであった、これもおかげであったと分るようになれば真の信者じゃとね。お互い真の信者ためには真の信心を、求めさせて頂きましょう。
 心に光を感じだしたら、面倒くさいなぁと言う事がなくなってきます。毎日若先生が朝晩挨拶に出て来てくれまして。それがただ勤めてじゃなくて、そこに一日頂いたおかげを、私しに聞いてもらわずにおれない、信心体験というものは、もう日々刻々感じておる証拠であります。それは取りも直さず先生の心に光が育っていっておるのです。きのうまで嫌い、もうあの人ばかりは好きにゃなれん、それを好きになろうと努めたところでなかなか出来る事ではございませんけれども。
 自分の心に光が感じられる様になりますと、たくまずしてその人の素晴らしさが分る様になり、いわゆるおかげをおかげと、本当に感じる事が出来る様になります。神様が私くしにそういう有り難い日々の中で、ハイライトということを、ま、私くしの解釈ですけれども、今までとは段違いの有り難さだと、その有り難いが合楽のごひれいのもとにならなければなりません。皆さん一人一人がその光にあやからしてもらい、皆さん一人一人がもろうてくるおかげを頂くためには。
 合楽にはそういう大きな機会があるだけではいけません。それを受け止める心と、ひとつになって始めて合楽のひれいを、銘々の心にも家庭にもまた自分のしょへいにも現していく事が出来るのです。信心とはおかげを受けると言う事なんですけれども、それのおかげのいうならば本質というかね。まぁ今日私聞いて頂いた様に自分の心に光を感ずる、それが大きくなれば大きくなるだけ、お風呂の中でも大きくなって行く訳でございます。とにかく有り難くならして頂く稽古だと、まぁ昨日も申しますけれども。
 ただお参りしておれば有り難くなっていくことではない。例えばなら我が家いちじが、私しが御用が出来なくなってこのまた、その御用に打ち込む姿勢、そのひりょうこそが心に光を感じておるのじゃないでしょうか。それが日々私しを安心させてくれる、喜ばしてくれる原動力なのです。どうぞ皆さん信心とは心に光を頂く事、しかもその光は限りなく大きくお育て頂いていく事が信心。
 それが楽しいそれが喜び、信心の喜びとは、おかげを頂いての嬉しいと言うのではなくてね、心に光をいよいよ頂いて行くと言う事が信心だと、皆さんこれはいつもいうことですから、分りきっておられましょう。耳に蛸が出来る様に思われましょう。けれどもそれに本気で取り組んで心に光を感じれる様になる、その楽しみが信心修行と、また形にも表れて来るおかげを頂いて行きたいとおもいます。
 私しは今のところおかげを頂いて、まぁ痛い痒いもないのですけれども、ちょっと頭を振ったら、ちょっと放たれたら、バターとそこに何処に置いたかも、先日眼鏡をつけたまま倒れましたから、これがばらばらに壊れましてから、足がよろよろで今歩く稽古をさせて頂いとりますけれども。あの足がほんとでは歩けない、ていう状態ですけれども。どうしましょう体があかんでも、そういう状態でなからなければ味わえない。
 頂けない事を最近痛感いたします。あぁ早く楽になってと、もうその中に神様のでなからなければ、感ずることの出来ない広大なおかばいを感じます。御神籠の中にある私達、それをね、感じ取らせて頂くのは心の光です、それをそれとおかげをおかげと感じさせて頂く心は光です。その光が勿論力にならないはずはございません。どうぞ心の光の育って行くことを楽しみに信心させて頂きましょう。
   どうぞ。